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穴澤雄介年表


生誕~幼稚園時代

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小学校時代

◆1981年◆


市川市立幸小学校(千葉県)に入学。

当時小学校低学年の音楽の授業で教わる 楽器と言えば、ハーモニカでした。

私は夢中で色々な曲を吹きましたね。父もハ ーモニカが好きで、とても上手でしたから

その影響もあったでしょう。けれど もヴァイオリンは、なかなか好きになれませんでしたね。

私は心臓の障害があり ましたから、体育の授業は制限がかなりございました。

プールには全く入れても らえませんでしたし、もちろんマラソン大会なども不参加でした。

その割には活 発な子供で、学校から帰ると、毎日のように外へ遊びに出かけていました。

友達 と野球やサッカー、缶けりや木登りなどをして駆け回っていました。

大人たちの 心配を余所に、元気いっぱい、ちっとも心臓病っぽくなかったですよね。

まあ、 今もそうですけど…。

◆1983年◆


小学3年生からの音楽の授業ではリコーダー。

こちらもハーモニカ同様とても 好きで、学校で教わること以上に色々と吹いていました。

私は、子供の頃から比較的、音楽に対するキャパシティーが広かったのかもしれません。

学校で教わる 音楽やテレビアニメの主題歌など、子供が好きそうな曲だけでなく、家にあった レコードで聴くクラシックやフォークソングも好きでした。

そして…、テレビの歌番組の中ではですねえ、流行のアイドルなどではなく、なんと演歌が大好きだったのですよ。

どういうわけか、時代劇と演歌がお気に入りで、「とっつぁん坊 や」などと言われていました。

変わってましたねえ。

◆1985年◆

小学5年生となり、吹奏楽部に入部。

担当楽器はクラリネットでした。これま た大好きでしたねえ。

しかし、ヴァイオリンは相変わらず嫌いでした。どうにか レッスンをサボれないかと考え

わざと突き指になることを期待して、レッスン 前に野球やサッカーをしに行ったことさえも…。

練習もほとんどしていませんで したから、当然下手で進みもかなり遅く

同じようにヴァイオリンを習っている クラスメイトの女子から、「ま~だそんなところやってるの?」なんて馬鹿にさ
れていたくらいだったのですよ。

ですからね、私は謙遜抜きに、ヴァイオリンは 完全に劣等生だったのでございます。

これ、本当の話ですよ。


 さて、この年の6月、私は最初の心臓の手術を受けることとなります。

子供な がらに、「もしかしたら死んでしまうかもしれない」というプレッシャーをかな り感じました。

とりあえず手術は、この時点としては成功。

しかし…、身体的負 担が弱いところに出たのでしょう。

視力は0,2に低下。その後も、徐々に徐々 に見えなくなって行く一方でした。

文字を読むスピードも急激に遅くなり、学校 での勉強は苦戦。

好きだった読書もあまりしなくなり、何より授業中にみんなの 前で教科書を読まされることが恐怖に感じるようになりました。

友達や周囲の人 たちも、私の視力低下を気にするようになり、それが精神的負担となって行きま した。

やがて、「音楽ならば目が見えなくなってきてもどうにかなるのでは?」 (甘いな、穴澤少年よ)と、漠然と音楽家になることを決意。

音大の付属中学を受験してみようと考えます。

◆1986年◆

小学6年生になり、受験に向けてヴァイオリンの猛練習を開始。

当時習っていた先生からは、「そういうことであれば、もっと専門的に学べる先生に教わってください」と言われ

新たな先生探しが始まりました。

ですが、私を受け入れてくれるいい先生は、なかなか見つからず苦労しましたね。

ピアノも受験科目にあるので、この頃から習い始めました。

元々劣等生だった上に、音中受験を決めたのもわずか1年前…。

こんな受験生は他に誰もいなかったことでしょう。しかも 、この頃になると、楽譜や教科書は拡大コピーをしなければ読めなくなってきま した。

学校のテストも、時間内に全部読み終えることができなくなってきました。

もちろん成績も落ち始めました。

受験には不利な条件が重なっていました。それでも運よく、見事に合格することができました!!

つづき(中学校時代へ)


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